今の教育ではダメだ、といつも言われ続けています
そしてそういう人のほとんどが現場の教師が悪い、と
確かに悪い教師もいます
直接生徒と向き合うのが教師の仕事だけに
やはりどうあがいても最終的には教師の責任になる場合がほとんどです
ですが、諸悪の根源は教師ではなく、もっと深い階層にあるかもしれません
とある場所でシンポジウムが行われました
内容はもちろん教育について
主なるテーマは別にありましたが
話が進むにつれテーマはだんだん「地域と教育」になっていきました
いわゆる学社連携というか、生涯教育の話です
パネリストは当然教育分野で優れた業績を上げた人で、肩書きもあります
その方々たちが様々な事象を取り上げ、心に残るような話をされたわけです
そしてシンポジウムも終わりが見えてきた頃、質疑応答の時間になりました
参加者の中から個別の、すなわち具体的な質問がいくつかでて
パネリストの方々はそれに「ああだ、こうだ」と解答していきます
前置きが長々となってしまいましたが
本題はここから
歳が70~80ぐらいのお爺さんがとある質問をパネリストたちにぶつけました
そしてその内容は、学校教育に留まらず、地域教育や家庭教育の
全てのありとあらゆる教育の、今の、問題を浮かび上がらすものでした
「とある地域に住む先生が、学校に行けなくなりました」
「その先生は家にこもっています」
「その先生に我々は声をかけてもいいのでしょうか?」
「かけてもいいのであれば、どういう声をかければいいのでしょうか?」
昔からないことはない話です
生徒のことを思うが故の、心労
潰れる人もいます
ですが―――
そのお爺さんの短い質問を聞くと、ある可能性が浮かびました
「娘さんか、お孫さんの話ではないのか?」
よくある話で、「私の友人が~」という言葉で自分のことを話しその反応をうかがう
たぶん、話し方からしてこの可能性が非常に高い
そしてこのお爺さんの質問に対するパネリストの方々の答えは・・・・・・・
なし
知らないはずないんです
わかっているはずなんです
なぜ教師が『学校に行けなくなるのか』
わかりますよ、パネリストも人の子
ただね、怖いだけなんです
見たくない
感じたくない
「○○という問題があるそうです」
この後に続く言葉は、「でも、うちは大丈夫」
群集心理のひとつ、「私だけは大丈夫」を地で行く反応
でも
今、そこにある問題
さっきまで威勢よく話していたんですよ
「ボランティアとは、人と人のつながりを構築するということだ」
とか
「ボランティアは、見知らぬ人同士を結びつけるツールだ」
とか
「駅の階段を昇れない車椅子の方を上まで昇らせて上げる」
「ボランティアをしなければ、ただ車椅子の方のそばを通り過ぎていくだけ」
「ボランティアをしたから、その見知らぬ2人が出くわす」
なぜ、目の前の人を救えない
パネリストの方々は教育の理論の構築と実践を行ってきた方々です
中には教育学部に所属している方もいました
現場にいた方もいます
確かにお爺さんの質問は、今回のシンポジウムの内容と一致しません
答える義理は何のかもしれません
ですが、
そのお爺さんの真剣さを感じると
もしかすると、ただこの質問をするためだけに参加していたのかもしれません
それなのに
なぜ答えない!
「教えることより、学ぶことのほうが難しい」
「最近の教育学部の学生や若い教師を見ると、感じる力が足りていない」
「不思議さを伝えるよりも、不思議さを生徒に感じされるほうが大変」
なぜ感じない!
冗談?
たとえ話?
一聴衆が感じ取った真剣さが
なぜ教育の世界で生きてきて素晴らしい肩書きをもつ人間が
なにも感じない!
シンポジウムが終わった後、そのお爺さんに一言いいたくて探していたら
とある著名な方と話していました
その顔から、話している内容がわかりました
ちゃんと感じとる人が、教育の世界の上層にもいる
それがわかって少し安心し、私はその場を後にしました
ああいう人間に、教育学部時代に養成されて外に出て
現場ではそういう人間に評価される
そうして生み出された教師は、果たして悪か?
現場より前の教育学部でも、腐っているのか?
計算が難しくなるからって自由電子近似ばかり用いては
バンドギャップはでてきません
今、目の前にある問題すら解決できない人間がいる以上
教育の世界の革命は、成し遂げられることは無いでしょう
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