全知全能の神様がいました。
神様は自身の持つ力を用いて、新しいセカイを創造しました。
そして人間を創造し、新しいセカイで放ちました。
出来立てのセカイで人間は最初、慎み深く生きていましたが時間が立つにつれて傲慢に生きるようになりました。
最初はわずかな“幸せ”で我慢していたのですが、より多くの“幸せ”を独占したいと思うようになり、人間達は思い思いの場所に手に入れた“幸せ”を保管し始めました。
たくさんの“幸せ”を手にすることができた人間は大きな倉庫を作り、全然手に入れられない人間は少ない“幸せ”を握って持ち歩いていました。
新しくできたセカイですから、“幸せ”は数え切れないぐらいあるのです。
簡単には見つからない“幸せ”もありますが、そういう“幸せ”を除いても全ての人間が満足できるだけの“幸せ”があります。
あるとき人間達は“幸せ”を探すことを止めました。
なぜなら大きな倉庫の中にはたくさんの“幸せ”が詰まっているからです。
あまり“幸せ”をもっていない人間達は大きな倉庫を襲撃して“幸せ”を略奪していきます。
倉庫の持ち主は当然、なんとか自分が集めた“幸せ”を奪われないように抵抗します。
“幸せ”を求めて、“不幸せ”のことが頻発して起こるようになったセカイ。
神様はそれを見て嘆き、全ての人間を“神の地”に集めてこう言いました。
「自分のものにできる“幸せ”は、自分で持てる分だけとする」
ありとあらゆる倉庫は神様の力によって解体され、そこにあった“幸せ”は神様の力で再びセカイ中に散って行きました。
倉庫の持ち主は深い絶望を味わい、生きる気力をなくし自らの命を絶つ人間もいれば、全知全能の神様が決めたのだからと諦める人間もいました。
“幸せ”をあまり持っていない人間達の中に、この処置に喜ぶ人間がいる一方、今までと何も変わらないと無反応の人間もいました。
人間達が手に持てるだけの“幸せ”で満足し始めたときのことです。
天才がこう言いました。
「体を鍛えれば、よりたくさんの“幸せ”をもつことができる」と。
人間達はその意見に賛同し、自らの体を鍛え始めました。
しかし中には体を鍛えようとしない人間もいました。
体を鍛えることで、より多くの“幸せ”を持つことができます。
しかしすぐに限界が来てしまいました。
確かに持てる“幸せ”の量は増えますが、鍛えない人間との差があまりでません。
それなら鍛えた時間が無駄だ、ということを言い出す人間まで出てきました。
そんなとき、天才がこう言いました。
「持つ、ということは自分の力で“幸せ”を動かせるということだ」と。
そういって天才はリヤカーを造り出しました。
リヤカーに“幸せ”を積むと、手に持っていた以上の“幸せ”を運ぶことができます。
天才の考えは瞬く間に広がり、天才のリヤカーを真似て多くの人間がリヤカーを造り、より多くの“幸せ”を手にしました。
しかし、今まで通り“幸せ”を手で持っている人間もいました。
リヤカーを持った人間達はリヤカーを引きながら“幸せ”を探し、見つけた“幸せ”をリヤカーに載せてまた新しい“幸せ”を探しに行きます。
あるとき、水の中だと重いものも軽くなることに気がついた天才がいました。
リヤカーで運ぶよりももっと多くの“幸せ”を手にすることができると、天才は水の中に飛び込みましたが、人間は水の中で生活できません。
しかし別の天才が水の中だけでなく、水に浮かべると軽くなることに気がつき、いかだを造りました。
造ったいかだに縄を結び、その縄をもって水の中に潜り、水中や底にある“幸せ”をもって帰りいかだに載せます。
自分で持てるだけ、という神様の言葉に反していないか心配する人間に対し天才は
「いかだから出ている縄を持っているし、いかだを動かすのは自分だ」
と言い、それに納得した人間達がこぞっていかだを造り始めました。
いかだはだんだん大きくなり、人間の力で辛うじて動かせるほどの大きさのいかだも登場しました。
しかし一度嵐が来るといかだは風と波で粉々に砕け、“幸せ”は水底に沈み、人間は波にもまれて溺れ死んでしまいます。
水は確かに便利だが危険だ、という認識が人間達の間で広まり、それ以降水に入る人間はいなくなりました。
リヤカーが1番“幸せ”を運ぶことができると言う認識が当たり前となり、リヤカーをいかに改良しよりたくさんの“幸せ”を運ぶか、ということが悩みの種となって頭を抱える人間がたくさんでてきたころ、ある天才がこう言いました。
「なにかでリヤカーを支えればいい」と。
何かしらの動力を利用してリヤカーを軽くし、それを人間が運ぶことで神様の言葉には反しないと天才は言ったのです。
天才の意見に感化され多くの人間が意見を出し合い、とうとうリヤカーにエンジンを載せることができるようになりました。
リヤカーを引くとエンジンがかかり、引くのを止めるとエンジンも止まる。
エンジンの重さはバカにできませんが、引く力はあまりいらなくなりたくさんの“幸せ”を積んでもリヤカーを動かすことができます。
リヤカーがどんどん進化していっても最初の状態のリヤカーを引き続ける人間もいれば、まだ“幸せ”を手で持つ人間もいます。
しかしそんな人間は少数で、ほとんどの人間が改良されたリヤカーを持つようになりました。
そんな中
「いっそのこと人間の手で引くのを止めて動力は全てエンジンだけにして、人間はそのエンジンを制御するだけにしてはどうか」
という意見が天才からだされました。
リヤカーをエンジンが動かし、そのエンジンを人間が動かす。
間接だけど確かに動かすのは人間なので、神様の言葉には反しない。
納得しない人間もいましたが、ほとんどの人間が天才の意見に賛同し、新しく車を造りました。
セカイにはいろんな人間がいます。
“幸せ”を手だけで持ち運ぶ人間。
“幸せ”をリヤカーに載せて運ぶ人間。
エンジンを載せたリヤカーで“幸せ”を運ぶ人間。
“幸せ”を車に載せる人間。
中には空を目指す天才もいましたが、最初にできた飛行機に“幸せ”を積む余裕などなく、改良しようとする人間もいましたが車の進歩は凄まじく、誰も空を飛ぼうとなど思わなくなりました。
車は最初、ノロノロとしか動くことができませんでしたが、エンジンが、車体が改良されスピードが出るようになりました。
車同士や、車とリヤカー、車と人間がぶつかることはよくあることでした。
しかしスピードが出ることでリヤカーや人間とぶつかった場合、ほぼ確実に相手の命を奪います。
本来、エンジンを改良することは車体を大きくしてより多くの“幸せ”を運ぶことで、スピードが上がるのは副産物にしかすぎませんでしたが、スピードの出る車を運転することに快感を覚える人間がでてくることで、スピード重視の車も開発されました。
いくらスピード重視の車と言っても、リヤカーや人間がとても運ぶことのできない量の“幸せ”を運ぶことができます。
しかし車でいくら走っても、“幸せ”は増えることはありません。
“幸せ”を見つけ、車から降り、“幸せ”を積み込まなければ“幸せ”は増えません。
手で“幸せ”を運ぶ人間やリヤカーで“幸せ”を集める人間とぶつかっても、車に乗っている人間は死にません。
そのことに優越感を覚え始める人間がどんどん増えてきました。
“幸せ”をたくさん見つける、たくさん持っている人間が本来優れているのですが、そういう人間を轢き殺すことができる車を運転する自分。
車を運転する人間がみな、そう思い出したとき、転機が訪れました。
エンジンの動力源が尽きたのです。
ありとあらゆる車が動かなくなりました。
代替品を探す人間もいましたが、見つかりませんでした。
改良を加えたリヤカーも同じように動かすことができなくなりました。
止まった車やリヤカーはかつての倉庫と同じ役割を果たすことになるため、人間は手にできるだけの“幸せ”を持ってその場を去ります。
しかし大量の“幸せ”を手にしていた人間が僅か手で持てるだけの“幸せ”だけで生きていけるわけがありません。
多くの人間が自らの命を絶ちました。
しかしほんの僅かですが、1からやり直す人間もいました。
セカイには“幸せ”を手で持つ人間と、リヤカーで引く人間しかいなくなりました。
それからまた長い年月がたち、とうとうリヤカーの基となるものもなくなってしまいました。
リヤカーは造られたものしかなくなり、それらも1つ2つと壊れていきました。
リヤカーの持ち主は積んでいた“幸せ”の中から、自分が一番だと思う“幸せ”だけを選び、その場から離れました。
しかしほんの僅かですが、リヤカーが朽ちると同時に朽ちる人間もいました。
ありとあらゆる人間が、始原の状態、すなわち手で持てるだけの“幸せ”を持って生きていました。
最初から最後まで手で持てるだけの“幸せ”しか知らない人間もいれば、車を乗り回していた人間もいます。
しかし始原の状態より、人間の数はかなり減っていました。
それからまた長い年月がたち、このセカイに再び神様がやってきました。
全ての人間を“神の地”に集めた神様は残った人間にこう言いました。
「お前達よ、よく私の言いつけを守った。中にはリヤカーやいかだ、車に目移りしたものもいるようだが、そういったものに心を奪われ私の言葉を聞かなくなったものは全て死んだ。かつてそうだったものもいるようだが、今この場所にいることでその罪は償われた」
神様はさらに言葉を紡ぎます。
「最後まで残ったお前達に、もっともたくさんの“幸せ”を持てる術を与える。それは無重力だ。無重力下では全ての重みはゼロになり、ありとあらゆる“幸せ”を手に入れることができる」
神様は自分の言葉に人間が喜びを感じ沸き立つ想像をしていましたが、実際は喜びの声を上げるどころかまったくの無反応。
かつての人間達なら、神様の想像したとおりの光景が繰り広げられていたでしょう。
しかし長い長い時間の流れの中で、それほど多くの“幸せ”は必要ない。
それどころかたくさんの“幸せ”を持つこと自体、罪であるという認識が生まれていました。
神様は人間達に失望し、その場を去りました。
残された人間達はしばらくの間“神の地”に留まっていましたが、1人また1人とその場を去っていき、“神の地”に誰もいなくなりました。
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