2007年6月 7日 (木)

間違っているかもしれませんが

『始まりはすべて小さい』(キケロ)

『人生とは今日一日のことである』(カーネギー)

『一日生きることは一歩進むことでありたい』(湯川秀樹)

『長生きするためにはゆっくりと歩くことが必要である』(キケロ)

『人間の投げる球だ。それを同じ人間が打てぬ事は無い』(川上哲治)

『成功は結果であって目的ではない』(フローベル)

『険しい山に登るには、最初からゆっくりと歩くことが必要である』(シェークスピア)

『雑草とは何か? まだ美点がまだ発見されていない植物だ』(エマーソン)

『最良の予言者は過去なり』(バイロン)

『井戸を掘るなら水が湧くまでほれ』(石川理紀之助)

『使わぬ宝は、無いも同然』(アイソポス)

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2007年5月18日 (金)

永遠があるというにしろ

「好きな天気は?」と聞かれて「くもり」と答え、少し間を空けて「一緒だ!」と言うシーンがあるアニメは『おもひでぽろぽろ』でしたっけ?

なんとなく思い出しました、深い意味はありません。

 

雨が好きです。

風が吹いているときは嫌いですが、風の無いしとしとと降る雨は最高です。

黄昏時には間違いなくなにかでそうな、そんな雨が好きです。

 

雨のニオイがわかる、という人がいます。

他人がニオイをどのように感じているのか分からないのでなんともいえませんが、私も雨のニオイがわかる一員です。

どこか懐かしさのあるニオイで、土のニオイなのかアスファルトのニオイなのかはわかりませんが、雨が降り出した直後に匂ってきます。

「思い出だけは持っている」という落ちでおわるショートショートがありますが、まさにその通り。

雨のニオイで懐かしさを感じれるだけの思い出はあります。

その思い出は自分が生きてきた過去、すなわち永遠そのもの。

永遠は、あるのです。

 

10メートル先に亀がいます。

その亀は自分の歩く早さの1/2倍のスピードで動きます。

仮に自分が秒速10メートルで亀に近づくと、1秒後亀は5メートル先にいます。

1.5秒後、亀は2.5メートル先。

1.75秒後、亀は1.25メートル先。

・・・・・・・・・。

有名な話で、アキレスと亀のパラドックスです。

ですがこの問題、小学生でも解けます。

秒速10メートルとかなりのスピードで走れば、2秒後には亀に並び、3秒後にはとっくに追い抜いています。

 

数も同じ。

3と4の間にπがありますが、πは無理数。

割り切れることがありません。

ですが3と4という有限の間に存在するわけです。

 

思い出も一緒。

今まで生きてきた有限の時間の中に、永遠の時間があるわけです。

その有限の時間の長さは人によって違いますが、同じ永遠。

その永遠の中に逃げ込みたいですが、それは現実が許さない。

ですが、逃げてもいいと思います。

どんなに辛い思いをしても、思い出は受け入れてくれますから。

 

その思い出すら与えられずに死んでいった子供がどれほどいることか。

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2006年11月29日 (水)

天使考

夢の中で雷に打たれました。

正確には、落ちた雷が地面をはってるのに触れてしまったという感じですが。

微妙に痺れるのは、夢の中でも雷と認識しているからでしょう。

雷というのは地面を這うようで、見た人を知っています。

見た人はトンネルの中で見たようですが、音の話は聞いていません。

嘘つく人じゃなかったので信じていますが。

 

目の前に天使の形をした何かが現れたとしましょう。

信心深い人なら間違いなく天使だと思い込み、今までで最高の祈りをささげるに違いありません。

みんなで集まって『本当にあった怖い話』でもしようということになっても、その人はその話をしないでしょう。

なぜなら目の前に現れたのは天使であり、恐怖体験には当然ならないからです。

しかし、それが例えば私なら間違いなく話のネタです。

 

長々と書きましたが、人によって恐怖の対象は別々であるということです。

ですから、私がなんでもないと思っていることが、人によっては恐怖体験になるかもしれないということです。

といっても何をあげていいのやら・・・。

私は夢をよく覚えているほうなんですが、最近は畳の夢が非常に多い。

なぜか光り輝く畳をみつめるだけという、意味不明なシチュエーション。

しかもめっちゃ畳に近い、むしろ寝そべっているようなかんじ。

夢占いにも、畳の項目があるのでしょうか?

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2006年10月 6日 (金)

“幸せ”

全知全能の神様がいました。

神様は自身の持つ力を用いて、新しいセカイを創造しました。

そして人間を創造し、新しいセカイで放ちました。

 

出来立てのセカイで人間は最初、慎み深く生きていましたが時間が立つにつれて傲慢に生きるようになりました。

最初はわずかな“幸せ”で我慢していたのですが、より多くの“幸せ”を独占したいと思うようになり、人間達は思い思いの場所に手に入れた“幸せ”を保管し始めました。

たくさんの“幸せ”を手にすることができた人間は大きな倉庫を作り、全然手に入れられない人間は少ない“幸せ”を握って持ち歩いていました。

新しくできたセカイですから、“幸せ”は数え切れないぐらいあるのです。

簡単には見つからない“幸せ”もありますが、そういう“幸せ”を除いても全ての人間が満足できるだけの“幸せ”があります。

あるとき人間達は“幸せ”を探すことを止めました。

なぜなら大きな倉庫の中にはたくさんの“幸せ”が詰まっているからです。

あまり“幸せ”をもっていない人間達は大きな倉庫を襲撃して“幸せ”を略奪していきます。

倉庫の持ち主は当然、なんとか自分が集めた“幸せ”を奪われないように抵抗します。

“幸せ”を求めて、“不幸せ”のことが頻発して起こるようになったセカイ。

神様はそれを見て嘆き、全ての人間を“神の地”に集めてこう言いました。

「自分のものにできる“幸せ”は、自分で持てる分だけとする」

 

ありとあらゆる倉庫は神様の力によって解体され、そこにあった“幸せ”は神様の力で再びセカイ中に散って行きました。

倉庫の持ち主は深い絶望を味わい、生きる気力をなくし自らの命を絶つ人間もいれば、全知全能の神様が決めたのだからと諦める人間もいました。

“幸せ”をあまり持っていない人間達の中に、この処置に喜ぶ人間がいる一方、今までと何も変わらないと無反応の人間もいました。

 

人間達が手に持てるだけの“幸せ”で満足し始めたときのことです。

天才がこう言いました。

「体を鍛えれば、よりたくさんの“幸せ”をもつことができる」と。

人間達はその意見に賛同し、自らの体を鍛え始めました。

しかし中には体を鍛えようとしない人間もいました。

体を鍛えることで、より多くの“幸せ”を持つことができます。

しかしすぐに限界が来てしまいました。

確かに持てる“幸せ”の量は増えますが、鍛えない人間との差があまりでません。

それなら鍛えた時間が無駄だ、ということを言い出す人間まで出てきました。

そんなとき、天才がこう言いました。

「持つ、ということは自分の力で“幸せ”を動かせるということだ」と。

そういって天才はリヤカーを造り出しました。

リヤカーに“幸せ”を積むと、手に持っていた以上の“幸せ”を運ぶことができます。

天才の考えは瞬く間に広がり、天才のリヤカーを真似て多くの人間がリヤカーを造り、より多くの“幸せ”を手にしました。

しかし、今まで通り“幸せ”を手で持っている人間もいました。

リヤカーを持った人間達はリヤカーを引きながら“幸せ”を探し、見つけた“幸せ”をリヤカーに載せてまた新しい“幸せ”を探しに行きます。

 

あるとき、水の中だと重いものも軽くなることに気がついた天才がいました。

リヤカーで運ぶよりももっと多くの“幸せ”を手にすることができると、天才は水の中に飛び込みましたが、人間は水の中で生活できません。

しかし別の天才が水の中だけでなく、水に浮かべると軽くなることに気がつき、いかだを造りました。

造ったいかだに縄を結び、その縄をもって水の中に潜り、水中や底にある“幸せ”をもって帰りいかだに載せます。

自分で持てるだけ、という神様の言葉に反していないか心配する人間に対し天才は

「いかだから出ている縄を持っているし、いかだを動かすのは自分だ」

と言い、それに納得した人間達がこぞっていかだを造り始めました。

いかだはだんだん大きくなり、人間の力で辛うじて動かせるほどの大きさのいかだも登場しました。

しかし一度嵐が来るといかだは風と波で粉々に砕け、“幸せ”は水底に沈み、人間は波にもまれて溺れ死んでしまいます。

水は確かに便利だが危険だ、という認識が人間達の間で広まり、それ以降水に入る人間はいなくなりました。

 

リヤカーが1番“幸せ”を運ぶことができると言う認識が当たり前となり、リヤカーをいかに改良しよりたくさんの“幸せ”を運ぶか、ということが悩みの種となって頭を抱える人間がたくさんでてきたころ、ある天才がこう言いました。

「なにかでリヤカーを支えればいい」と。

何かしらの動力を利用してリヤカーを軽くし、それを人間が運ぶことで神様の言葉には反しないと天才は言ったのです。

天才の意見に感化され多くの人間が意見を出し合い、とうとうリヤカーにエンジンを載せることができるようになりました。

リヤカーを引くとエンジンがかかり、引くのを止めるとエンジンも止まる。

エンジンの重さはバカにできませんが、引く力はあまりいらなくなりたくさんの“幸せ”を積んでもリヤカーを動かすことができます。

リヤカーがどんどん進化していっても最初の状態のリヤカーを引き続ける人間もいれば、まだ“幸せ”を手で持つ人間もいます。

しかしそんな人間は少数で、ほとんどの人間が改良されたリヤカーを持つようになりました。

そんな中

「いっそのこと人間の手で引くのを止めて動力は全てエンジンだけにして、人間はそのエンジンを制御するだけにしてはどうか」

という意見が天才からだされました。

リヤカーをエンジンが動かし、そのエンジンを人間が動かす。

間接だけど確かに動かすのは人間なので、神様の言葉には反しない。

納得しない人間もいましたが、ほとんどの人間が天才の意見に賛同し、新しく車を造りました。

 

セカイにはいろんな人間がいます。

“幸せ”を手だけで持ち運ぶ人間。

“幸せ”をリヤカーに載せて運ぶ人間。

エンジンを載せたリヤカーで“幸せ”を運ぶ人間。

“幸せ”を車に載せる人間。

中には空を目指す天才もいましたが、最初にできた飛行機に“幸せ”を積む余裕などなく、改良しようとする人間もいましたが車の進歩は凄まじく、誰も空を飛ぼうとなど思わなくなりました。

 

車は最初、ノロノロとしか動くことができませんでしたが、エンジンが、車体が改良されスピードが出るようになりました。

車同士や、車とリヤカー、車と人間がぶつかることはよくあることでした。

しかしスピードが出ることでリヤカーや人間とぶつかった場合、ほぼ確実に相手の命を奪います。

本来、エンジンを改良することは車体を大きくしてより多くの“幸せ”を運ぶことで、スピードが上がるのは副産物にしかすぎませんでしたが、スピードの出る車を運転することに快感を覚える人間がでてくることで、スピード重視の車も開発されました。

いくらスピード重視の車と言っても、リヤカーや人間がとても運ぶことのできない量の“幸せ”を運ぶことができます。

しかし車でいくら走っても、“幸せ”は増えることはありません。

“幸せ”を見つけ、車から降り、“幸せ”を積み込まなければ“幸せ”は増えません。

手で“幸せ”を運ぶ人間やリヤカーで“幸せ”を集める人間とぶつかっても、車に乗っている人間は死にません。

そのことに優越感を覚え始める人間がどんどん増えてきました。

“幸せ”をたくさん見つける、たくさん持っている人間が本来優れているのですが、そういう人間を轢き殺すことができる車を運転する自分。

車を運転する人間がみな、そう思い出したとき、転機が訪れました。

エンジンの動力源が尽きたのです。

 

ありとあらゆる車が動かなくなりました。

代替品を探す人間もいましたが、見つかりませんでした。

改良を加えたリヤカーも同じように動かすことができなくなりました。

止まった車やリヤカーはかつての倉庫と同じ役割を果たすことになるため、人間は手にできるだけの“幸せ”を持ってその場を去ります。

しかし大量の“幸せ”を手にしていた人間が僅か手で持てるだけの“幸せ”だけで生きていけるわけがありません。

多くの人間が自らの命を絶ちました。

しかしほんの僅かですが、1からやり直す人間もいました。

 

セカイには“幸せ”を手で持つ人間と、リヤカーで引く人間しかいなくなりました。

それからまた長い年月がたち、とうとうリヤカーの基となるものもなくなってしまいました。

リヤカーは造られたものしかなくなり、それらも1つ2つと壊れていきました。

リヤカーの持ち主は積んでいた“幸せ”の中から、自分が一番だと思う“幸せ”だけを選び、その場から離れました。

しかしほんの僅かですが、リヤカーが朽ちると同時に朽ちる人間もいました。

 

ありとあらゆる人間が、始原の状態、すなわち手で持てるだけの“幸せ”を持って生きていました。

最初から最後まで手で持てるだけの“幸せ”しか知らない人間もいれば、車を乗り回していた人間もいます。

しかし始原の状態より、人間の数はかなり減っていました。

それからまた長い年月がたち、このセカイに再び神様がやってきました。

 

全ての人間を“神の地”に集めた神様は残った人間にこう言いました。

「お前達よ、よく私の言いつけを守った。中にはリヤカーやいかだ、車に目移りしたものもいるようだが、そういったものに心を奪われ私の言葉を聞かなくなったものは全て死んだ。かつてそうだったものもいるようだが、今この場所にいることでその罪は償われた」

神様はさらに言葉を紡ぎます。

「最後まで残ったお前達に、もっともたくさんの“幸せ”を持てる術を与える。それは無重力だ。無重力下では全ての重みはゼロになり、ありとあらゆる“幸せ”を手に入れることができる」

神様は自分の言葉に人間が喜びを感じ沸き立つ想像をしていましたが、実際は喜びの声を上げるどころかまったくの無反応。

かつての人間達なら、神様の想像したとおりの光景が繰り広げられていたでしょう。

しかし長い長い時間の流れの中で、それほど多くの“幸せ”は必要ない。

それどころかたくさんの“幸せ”を持つこと自体、罪であるという認識が生まれていました。

神様は人間達に失望し、その場を去りました。

残された人間達はしばらくの間“神の地”に留まっていましたが、1人また1人とその場を去っていき、“神の地”に誰もいなくなりました。

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2006年9月13日 (水)

シュラ-精神星座αψζ星雲

最近、高校時代の夢を見るようになりました。

といっても出てくるのは部活の仲間達ですが。

あまりたいした高校時代を送っていないので、そんなもんでしょうか。

 

さて、問題はそこではなく、夢の中の場所なのです。

見知らぬ、風景

とでも言うのでしょうか、今まで言ったことも写真で見たことも無い不思議な空間。

夢でよくあるメチャクチャな風景とは違い、探せばもしかするとあるかもしれないような場所。

場所も問題ですが、それ以上に問題なのは、

部活仲間の夢を見るときはいつもその場所だということです。

 

最近見る部活仲間の夢は全てその場所が舞台になっています。

つまり違う夢なのに同じ夢の舞台の上で踊っているということ。

まったく違う話でも舞台は一緒。

何か意味でもあるのでしょうか? わかりません。

 

実は精神は統合体でもともとは4次元空間で漂っていて、肉体が活動しているときは一つになって3次元空間で活動しているが、眠っているときはバラバラになってもとの4次元空間に戻って自由に漂いさまざまな行動をするが、肉体が目覚めるため3次元空間に戻るときにそのときの記憶を部分的に失ってしまいそれを肉体が夢として認知する、

という電波でも飛ばしてみますか・・・・。

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2006年8月24日 (木)

ヒトとユウレイの間

さて、「これって、私じゃなくてもいいんじゃない?」と思ったことはありませんか?

ここで必要なのは『私』ではなく、声をかけたのはたまたまそこに私がいたから。

まぁ、普通の人生を歩いていれば一度や二度ではないでしょうね。

 

社会とはよくできているもので、知らない間に歯車として繰り込まれてしまいます。

人によってはなくてはならない歯車になっているかもしれませんが、きっと9割以上が形だけあった状態でしょうね。

 

さて、『本当にあった怖い話』で心に傷を負った少女の話が出てきてました。

人にはそれぞれ心に傷を持っているもんだし、もちろん私も。

ですが大勢の方はあのような体験をなされたことがありません。

ということは彼女の心の傷はもっと深いのか、違う何かなのか。

 

人は『目に見える何かと、口に見える何かがそろっていれば人の顔に見える』そうです。

つまり目のようなもの2つと、口のようにみえる影なり穴があれば人の顔に見えてしまうということです。

 

あなたは幽霊を見たことがありますか?

というか、あなたは幽霊を見たと感じたことはありますか?

職場や学校で、誰とも会話をしたことの無いような、地味で陰気くさい人を見かけたことはありませんか?

実は彼、もしくは彼女は幽霊だったらどうしますか?

職場でもクラスでも相手にされない彼、彼女こそ幽霊では?

といえば大変失礼でしょうね。生きてるのに死んだことにされた上幽霊扱いですからね。

でもあなたは確かめたことがありますか?

会話をしたことがありますか? 

 

あなたは幽霊ですか?

もしくは、あなたは自分自身が幽霊ではないかと感じたことはありますか?

自分が他人のことをそう思うということは、自分もそう思われているかもしれません。

『我思う、故に我あり』という言葉がありますが、その『我』は何を表しているのですか?

人間ではなく幽霊でもいいと思いませんか?

 

あなたの周りに『人間』はどのくらいいますか?

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2006年6月22日 (木)

In other words,I need you.

渚カヲル・・・女性の心を掴んだキャラ(DVDにて) ????

これは『まじかるぽか~ん』ですね。『ぽか~ん』よりもレベルが上です。

一体何人の女性が初回放送を見ていたのでしょうか?

もっとも『彼』は1話からでていますが。

まぁ、私は“姉”からビデオを借りてみたのが最初なので、

おそらくフォースかフィフス・チルドレンでしょう。

“姉”はファースト・チルドレンですが、渚クンがいいとは言ってませんでした。

 

ということは再放送等によって広まっていったということでしょうか。

インパクトがあったというのはわかりますが、ラミエルの敵ではありませんね。私としては。

エヴァは語りません。

なぜなら答えが出ない上に他で多く語られていますから。

だからといっていろいろな人の『個人的解説、考察』に

すべて納得してるわけではありませんが。

 

全てが崩壊した世界、『まごころを、君に』のラストの世界がかなり好きです。

あの世界が『幼年期の終り』のラストシーンとかぶって見えるからです。

文明の誇る『モノ』が『オブシェ』とかし、『量産機』や『レイ』すらも『オブジェ』とかした世界。

『千と千尋の神隠し』のあの寂れたテーマパークの風景も好きです。

壊れかけの建物に青々しい草原と、青い空と白い雲。

根源的に同じものに見えてしまいます。

それは『私が望む世界』であって、私の理想がそこに投影されているのでしょう。

まぁ、何故エヴァを見るかというと『公園』や『電車』のシーンが好きだからです。

『千と千尋』も『海』と『電車』のシーンがありましたが、アレと同等です。

もっとも先に出したのはエヴァですが、エヴァは毒が強く、千は美しい。

 

新井素子の作品に核戦争後の世界を描いたものがありますが、

私はそういう『文明の崩壊後』の世界が好きなようです。

FF5の『第3世界』も好きでしたし。

破滅志向、という物ではないと思いますが、どうなんでしょうか。

本当は心の奥底で世界の消滅を願っているのでしょうか?

 

誰にも言わなかったことをいいます。

 

私がまだ小さいころ、殺虫剤を吸った事がありました。

そのとき親に言われたのが『死ぬよ』と言う言葉です。

まだ幼稚園上がりの私は『死』というものを強く意識し、その日は泣いて過ごしました。

おそらく私はそこで壊れたのでしょうね。まだ6歳ですよ。

でも、そこで全てが決まってしまったのでしょうね。

『死』というものを初めて感じた瞬間でしょうね。

 

私が必要としているものはなんでしょうか?

それが理解できないから、生きているんでしょうね。

必要とする人はいません、といいたいけれども、社会で生きていくには

どうしても『ヒト』というモノが必要なのです。つまりタシャがね。

 

一度で良いから自分の視界にヒトが映らない場所に行きたい。

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2006年6月15日 (木)

ピーターパンの島

子供は大人が嫌いです。

なぜなら大人はすぐに嘘をつく、汚い生き物だからです。

平気な顔をして他人を騙し、ときには自分自身も裏切る。

何も知らない子供を、簡単に利用して捨てる。

それも自分自身のためのみならず、シャカイという生き物のために。

子供は生きていくためには、大人に頼るしかありません。

大人はそれを知っている。そして子供も。

子供達は夢のあるセカイで生きて行きたい。

でも大人たちの生きているセカイは、虚構と惰性のセカイ。

子供は大人を見て全てを知っています。

だから子供は大人が嫌いなのです。

 

子供は大人の元から離れたいのです。

しかし子供は同時に知っているのです。

大人の元から離れるということは、自分も大人になるということです。

大嫌いな大人から離れるためには、自分も大人になるしかない。

最初は夢と理想を貫き生きようとする。

でもそれでは生きていけないセカイが、大人のセカイなのです。

生きていくうちにどんどん染まり、やがてシャカイを構成する一因子になる。

それは悪ではなく、正義でもない、ただの惰性。

そういう大人を見て、子供はまた大人を嫌いだすのです。

 

全ては、オトナのいるセカイ。

そのセカイは大人が支配し、子供が指一本触れることのできないセカイ。

そのセカイは子供が道具になるセカイ。

大人の欲望をかなえるために、シャカイの欲望をかなえるため。

そこには子供の意志など一切解さないセカイ。

 

全ては、オトナがいるセカイの話です。

 

コドモだけのセカイはどうなりますか?

コドモの理想だけで成り立つセカイはどうなりますか?

コドモの意志が全てにおいて優先されるセカイはどうなりますか?

その答えは『ピーターパンの島』です。

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2006年5月30日 (火)

Take my revolution 生きて行こう

現実はがむしゃらに来るし

自分の居場所 存在価値を見つけたい

今までの自分を

潔く 脱ぎ捨てる 裸になる

自由を舞う薔薇のように

たとえ2人離ればなれになっても

私は世界を変える

 

さて、生きていきましょうか。それしか道はないわけですから。

一体自分がどんな世界を求めているか、あなたはわかっていますか?

私はわかっています。

 

私の望む世界は、私以外の人間がいない世界、です。

私ってものすごく排他的なんですよね。

友達といても、もう1人の自分がその私の後ろからついてくるのです。

そして私がその友人達と、より親密な関係になろうとすると

そのもう1人の自分が私の前に立ちはだかるのです。

よくドラマやアニメで見かける、両手を広げて仁王立ち。

絶対に私に近寄れないようにしてしまうのです。

しかも私自身、それを心地よく思っているのが、もう絶望的です。

 

とあるブログにこんな言葉を見つけました

もしも理由がないとするなら

私はここまでの存在になれそうにありません。

 

ですが私の望む世界には、大きな欠点があるのです。

それは『私以外人間がいない世界=私以外の人間がいる世界』ということです。

つまり単純に私が死ねば、私の望みは達成されるのです。

 

ですが死ぬ気なんてありません。

別に精一杯生きているわけではありませんが、何かもったいないような気がする。

それだけの理由です。死ぬ理由がないから死なないだけなのかな?

 

現実は私の望む世界と乖離していますから、その乖離した二つの世界を

『グローシュ』で必死に繋ぎ止めているのです。

ですが星新一のショートショートにもあった

『死後の世界を見える機械を造ったら、死後の世界が余りに素晴らしいことがわかった。そうなったら人間はどうするか』

という話にもし私がいたら、たぶんどんなに死後の世界が素晴らしいといわれても死なないでしょうね。絶対に。

もしかしたら、天邪鬼かもしれません。私は。

生きる理由がなかったら死ぬのでしょうか?

 

もし世界を革命したら、どうなるのでしょうか?

社交性でも身につくのですかね。

A.T.フィールドが強すぎるのか、中和できる人間がいないのか・・・・。

人間ってリリンから生まれたわけでしょ?

それなのにどうして人間同士で拒絶するのかしら?

サキエルが二匹いたら、お互いをA.T.フィールドではじきあうのでしょうか?

イスラフェルは分裂してもA.T.フィールドを持っていましたが、

あれは自分の片割れもはじくのでしょうか?

 

なんか慣れるとすごく気持ちがいいですよ。

自分とその後ろにもう1人の自分がいる環境は。

物事を絶対に真正面から見ませんからね。

そんな生き方が許される限り、私はそういう生き方をしていきたいと思います。

でも世界を革命する力はほしいなぁ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

本当はウテナのことが嫌いなのでしょうね。

自己嫌悪ですか・・・・、たぶんそれに近い感情でしょう。

それと同時に近親観が沸く。

ラストがアレだったからかなぁ?

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2006年5月11日 (木)

『私』のいない夢

最近とても憂鬱です。これも全て睡眠不足と不快な夢のせいです。

私は睡眠が足りないと微妙に頭が回らなくなるので、人に指摘されるまでとんでもないことをやり続けたりします。

全ては正常に動かなかったパソコンのお陰です。

「録画ぐらい自力でやれよ、ボケが」って機械にいっても聞いてくれません。

お陰で『フロッグマンショー』をナマで見ることになってしまいました・・・。

 

もう一つは夢のせいです。

『幼年期の終り』みたいな夢なのですが、ぜんぜん違う展開になりました。

メインの登場人物は2人の15歳の男の子です。

『だれ?』でしょう。この夢に『私』は最後まで出てきませんでした。

いうなれば『私』はその世界の傍観者、つまり『神』ということでしょうか?

 

2人は大変仲のいい友達でした。幼馴染という関係でしょうか?

ところが二人がまだ小さいとき、宇宙人がやってきて大騒ぎになりました。

ところが宇宙人は『宇宙船を開発しない』ことを条件に、未開の地球人に技術を提供し、

人類は数年で2000年かかっても達し得ないであろう領域まで進歩しました。

中には『禁忌』に手を出そうとする人間もいましたが、宇宙人の手によってまたは

地球人によってすべて潰されていきました。

 

てなとこから『物語』が始まるのですが、ここまでを一瞬で理解するのが『夢』。

話は簡単で2人が学校から下校するときに、片方が宇宙に出る夢を語り、

もう片方がそれをやんわりいさめつつも、心の奥底で応援している状況があっというまに

目の前を通り過ぎたかと思うと、なんかイロイロあって(よく覚えてない)

片方が宇宙船をひそかに建造して、宇宙に飛び出していきました。

 

片割れがいなくなったということは、宇宙に飛び出たと確信したもう片方が学校に

行く用意をしていたら、遠くのほうで何かが爆発する音がして、慌てて飛び出してみると

街が宇宙人の攻撃を受けていてしかも攻撃しているのが地球人に英知を授けた宇宙人。

瞬く間に自身のいる辺りも焼け野原になり、世界が崩壊していくのを片方が

じっと見つめながら死んでいく。

 

もう片方は宇宙に飛び出たが、行く先も分からないのでとりあえず地球に戻ることに。

地球に戻ってみるとそこには『何も無く』、文明の痕跡である『コンクリートの海』だけが

広がっている世界で、直感的にこの世界には自分しかいないことを悟る。

もちろん片割れもいないわけで、せめて片割れの痕跡でも、と捜し歩いていたら

宇宙人が目の前に現れる。この状況で導き出せる答えは一つ、

『宇宙人が地球を、世界を崩壊させたこと』

目の前にいる宇宙人を、せめて『1人』でもいいから殺してやろうと襲い掛かる寸前に

空から宇宙人の『親玉』が現れる。片方は『そいつ』に掴みかかろうとするが、

あっさりととめられてしまう。最後の地球人らしく、辱めを受けまいとして自殺しようとするがそれもあっさり止められてしまう。

片方は向こうが攻撃の意志を有していないことを悟った片割れは

地球を崩壊させた理由を尋ねる。

 

『親玉』は、「『この世界』の『外』に『我々』よりも優れた『存在』がいる。

『我々』は『その存在』を『この世界をこえたもの』と呼ぶ。

『人』によっては『混沌からの使者』と『秩序からの使者』と呼ぶものもいる。

『それら』は『外』にいるため『内部』に自由に影響を与えられる。

『我々』は『この世界をこえたもの』の『意志』によりこの星を繁栄させた。

しかし『この世界をこえたもの』がこの星に滅亡を与えるように命じたために、滅ぼした」

と答える。

ここからSFなどによく見られる『世界』と『自己』や『意識』『宇宙』について

片割れが『親玉』と議論するが、結局どうすることもできない。

 

片割れは宇宙人が立ち去ったのを確認した後、

「なぜ俺たちは滅ばなければならなかったんだよ!!」と叫んで終わる。

 

 

正直言ってわけが分かりません。

『私』が滅ぼしたのでしょうか?

『夢』の登場人物は、必ず自分自身が存在する―――たとえそれがどんなカタチであっても、子供だったり、どこぞの勇者でも、必ず自身だと分かるもの―――はずなのですが、

この『夢』に『私』は登場しなかった。

どこぞの馬の骨とも分からぬ、二人の男の子。それがメインの主役。

 

今週はきっと不幸週間ですね。最後までこのままだと思います。

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2006年5月10日 (水)

なにアニメやゲームに感動してんの?馬鹿じゃない?

という「あなた」、悲しいですね。

 

「あなた」は何かモノに感動したり、自身の世界観の変化を感じたことはありますか?

私はあります。

「ヴァルキリープロファイル」の中の夢瑠のイベントでのヴァルキリーのセリフです。

その前にも『楽しいときに笑えない、悲しいときに泣けない』というセリフもあります。

ですがやはり『彼女のことを想うが故に、彼女の死を願うのか』ですね。

当時私はこのセリフを聞いたとき、『ああ、こういう選択もあるのか』と思いました。

それまでにたくさんの『死』を見てきました。何かを守るために死ぬヒト。

死ぬことでしか存在意義を満たせないヒト。でもこういう選択は見たことが無かった。

私は世界観が大きく変わりました。今までの自分の生き方が間違ったものであったという認識を、見事に吹き飛ばしてくれました。

こういう生き方でも、認められるのだと思いました。

 

「ヒトの致死率は100%である」と有名な学者がいっていますが、同感です。

DQ5をプレイしたことがある方は分かると思いますが、パパスが殺されるときのシーンはかなりのものがあると思います。

子供である主人公を守るために死んで行くパパスは、それはもう鳥肌ものでした。

当時子供だった方々が、大きくなって子供を持ったときにDQ5を再プレイしてみると、

子供のときには感じなかったモノが感じ取れるようになると思います。

守られてきた存在から、守るべき存在へと、変化した方にとって同じシーンでも感動の具合が違ってくると思います。

その証拠にPS2のDQ5のエンディング、なぜかパパスのシーンばかりでした。

つまりあの当時子供だった(といっても結構な年齢)人が大きくなって子供を持って、

パパスが死ぬシーンに違った印象を持ったため、あのようなエンディングになったものと思われます。

 

ゲームやアニメ、コミックなどは常に叩かれてきました。

もちろん叩かれるには理由があります。素晴らしいゲームがある一方、人を殺すだけのゲームも存在することは知っています。

ですから、そういうゲームを叩くのはわかりますが、すべてはどうかと。

親は子供が人の死ぬゲームをプレイして欲しくない気持ちは分かります。

子供の年齢が低ければ低いほど、その気持ちは強くなると思います。

 

学校から帰ってきたら「おじさんが死んだ」といわれて、そのまま葬儀場に連れて行かれて青白くなっている肌を見せられて、「死んでしまったのよ」といわれてもピンときません。

遊びに行くといつも笑顔で迎えてくれたし、お正月にくれるお年玉も他の人よりもちょっと大目でした。

それでもやはり『死』というのは理解しがたいものです。

しかしゲームなどは確かに生き返ったりすることが多いですが、『死』というものを子供に理解させるには非常に便利だと思います。

「赤ちゃんはどこからくるの?」という質問をされると答えに詰まる親が多いと思いますが、「死んだらどうなるの?」という質問に答えられる親は存在しません。

ゲームなども確かに答えは出てきません。ですが『死に至る道』は示してくれます。

『セーラームーン(無印)』のラストをみた子供が泣き出した、呆然としている、といったことを聞いたことがありますが、当然だと思います。

登場人物に感情移入をした子供、特に幼いほど盲目に感情移入しやすいですから、あのシーンを見せられて『死』というのを感じないわけがありません。

 

よく映画の宣伝で『感動』を伝える人が多いですが、それは確かにそうです。

『感動させる』目的で作られていますから、感動しないとまずいわけです。

ですが最近は『泣きたい症候群』が流行っていて、泣かないと気がすまない人もいます。

それを否定するつもりはありません。ですが私みたいな人間は、半歩下がって物事を見ますからどうしても『泣き』が理解できません。

 

話を原点に戻すと、結局「あなた」はなにに感動するのでしょうか?

「映画」や「文学」という答えが返ってきたとしても、それが「ゲーム」や「コミック」となにが違うのでしょうか?

つまり私はそれがわからないわけで、それが理解できない限り「あなた」の擁護ができないのです。

『感動』とは積み重ねだと私は考えます。ですから感動しない人間は今まで感動したことが無いし、今感じている感動は以前の感動とは別物だと思います。

 

『感動の押し付け』も流行っているそうなのでなんともいえないのですが、

真っ当な人間なら『宇宙戦艦ヤマト』の地球を見ると、何かを感じるはずです。

別にゲームをして感動しろとはいいません。ですが「あなた」が感動したものと同様のものがゲームにもあるということです。何かにかこつけて叩くのはやめて、といっているのです。それがフェアというものです。

 

まぁ、世界が狭い人間で、ゲームをボーっとできる人間のたわごとですからね。

でも「規制」には反対ですね。何か悪を作らないといけないことは分かっていますが、

だからといって天下り式に「規制」するのはどうかと思います。

とりあえずDQ5(SFC)をプレイしてから議論してください。

エヴァは、どうかな・・・。ちょっとアレはきついかな・・・。でも『生きる』アニメとしてならいいかなぁ・・・。『まごころを君に』は結構好きなんだけどなぁ。

 

なにに感動するかは人それぞれなんだよね。ゲームについて語ってみたけど、別にゲームを神聖視しているわけではないのです。多様性ですね。選択肢が多ければいいのです。その選択肢の中に、たとえ低俗だといわれようとも「ゲーム」や「アニメ」「コミック」が入っていればいいのです。それだけで満足なのです。

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2006年5月 8日 (月)

I'm a dreamer

死後の世界って、どんなんかなって非常に興味があります。

だからといって、死にたいというわけではありません。私の感では、今死んでも

後で死んでも一緒のような気がするので、たぶん寿命で死ぬまで生きるでしょう。

別に『死後の世界』を記した本を読もうと思いません。だって『生きてる』人間が

『死後の世界』をかけるわけありませんから。

 

でも世界ではそういう研究をしているところがあるらしいですね。

それとは関係ありませんが、『世界意識計画』というのが興味を引きます。

最近知った『世界意識計画』はEGGsという機械を使うものなのですが、

EGGsは機械の周りの静電気などの電気的なものに反応して0と1を打ち出すもので、

世界中にこの機械をセットすることによって、ある時間の電気的なものを世界中で

感知しそれに反応して0と1を打ち出すことで『何か』を見つけようとする計画だそうです。

『何か』とは『何か』なので分かりませんが、どうやら世界的規模の大災害や、

悲惨な事件に反応するそうで、スマトラ島沖の地震や9,11のテロの前に

この0と1のバランスが大幅に崩れるそうです。

本来は統計を取れば機械がほとんどランダムに0と1を打ち出すので

ほぼ2分の1に分かれるはずなんですが、こういった出来事の前には極端に

1が多かったり、0が多かったりするそうです。だから『何か』を調べることで

予知ができるのではないかと、考えているらしいのです。

 

まぁ眉唾物ですね。だいたいこういうものは後から出てくるものなんですよね。

もしこの研究団体が事前に公表すれば、それなりの信憑性が得られるのですが、

結果的にそうなったのでは、意味がありません。

0と1のバランスが崩れても何もおきない可能性があるいじょう、あまり当てになりません。

でもどうやらこの機械は東京にもあるらしいので、実物を見た人がいるかもしれません。

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2006年4月21日 (金)

世界の中心で愛を叫ぶ

世界の中心で愛を叫ぶは純愛として有名ですが、

とあるところが『極刑』と叫ぶほどアンチも多い仕様です。

私は『極刑支持派』ですが、だからといってそうではない人を攻撃したりなどしません。

 

涼風が吹くはずもない季節にあるアニメがありました。

その内容が気に入らなかったのでこんな風にしてしまいました。

音楽は良かったんですけどね。音楽だけは・・・。

 

できれば読まないほうがいいです。以下の文章は。

本当に読まないほうがいいです。本当に。

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2006年4月20日 (木)

当時うけたストレスが分かる

掃除していたら、へんなものを見つけました。

へんなものといったらへんかもしれないが、私が書いたものです。

どうしようか分からないし、消したくはないし、

まことに身勝手ではありますが、ここにおくことにしました。

『雪の女王』のある話を改悪したものです。

かなり話が変わっていることから、このアニメを見たときの

ストレスがどれほどのものだったか、思い出してしまいました。

読まないほうがいいかもに知れません。

だって文才がない人間のただの独りよがりですから。

苦情は受け付けるほど出ないと思います。

ここまで話が変わればもはや別の話だと思いますからね。

それに改悪だし、ツギハギだし。

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2006年4月19日 (水)

世界を革命して欲しかったよ

だってそうすれば私は今ここにいないんだもん。

 

なんてね。そんなわけはないですよ。ちゃんと区別はできていますよ。

『革命』といえば何を思い浮かべますか?

たしか「20歳までに共産主義にはまらないのは情熱がない、それ以降は知性がない」

て言葉を聞いたことがありますが、そうではないのですよ。

 

「ウテナ」ですね。おそらくこっちを思い浮かべる人はまれでしょう。

だって『革命』だけですよ。それだけで出てきたら、ちょっと同類ですね。

最近、レンタルビデオ店においてある『少女革命ウテナ』のコーナーに

吸い寄せられています。「をいをい、そんなもの見てる暇があったら

まだゼンクリしていないゲームでもやれよ」、ともう1人の自分が言います。

でもね、ついついお店に入ると引き寄せられます。気づいたら目の前には

「ウテナのDVD」が。それなら入るなといわれそうですが、いろいろあるのです。

「カービィ」はちょくちょく借りますけどね。「星のデデデ」と「フームたん」は

しょっちゅう借ります。てかアレ以上の「作画崩壊」を知りません。

私のツボはデデデとエスカルゴンがお互いをほめるシーンでかなり気合の入った

「絵」ですね、かなりリアルです。いやね、ど真ん中ですよ。

「ドラマはいつも戦わせたがる」「真理だわ」のコンボにかなりはまります。

当時はSAMU・・・KYOの後に、もしくは前後に。いまではBLE・・・CHですかね。

ワンピーちゅうとかね。ていうかほとんどですね。まぁ・・・EAC・・・は

作画もひどく見えますからね。何ででしょうかね。

 

「自分はオリジナルだとおもっていたら数ある量産型の一つだった」というのが

もとネタが分かりませんでした。今も分かりません。

分かるのは「消魔鳳凰斬」や「海天聖龍」ぐらいですかね。

これってDVDでてんのかな?分からないですね。

 

近くの本屋には「ユート」がおいてあるのに

「美少女戦士セーラームーン完全版」がおいてありませんでした。なめてますよね。

 

「STARLIGHTにキスして」が好きで今でも聞いています。

「飛び出せHERO」も聞いています。なんか中毒です。

 

「世界を革命」するのと「世界を変革」するのはどっちがいいのでしょうかね。

「クーデター」は権力、おもに軍部による国家転覆ですが

「革命」は非権力者、おもに民衆による国家転覆です。違い分かってましたよね?

なんか高圧的ですね。すみません。

 

『かつては勝沼自身が研究者だった』

 

革命できるのは『清らかな女性の特権なのか』本気で考えてしまいます。

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